2013年06月02日

飢餓海峡 1965日 内田吐夢

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二度目の鑑賞です。
私なりの三国連太郎さん追悼です。

三国さんの代表作であり、ヒロイン左幸子さんの代表作でもあると、
捉えていましたが、今回もそれを強く感じました。
そして伴淳三郎さんもいぶし銀です。

物語は、戦前の飢餓、戦後それを引き継いだ飢餓と混乱、
それと、人が人を信じる難しさを描いています。
それらは前回の鑑賞でも感じていて、今回も同意です。

今回は、それに加えて二人の分岐点を考えてしまいました。
二人とも極貧の出生です。
二人ともあのカネでそこから抜け出せました。
二人は一夜未満で共に相手の心の空虚を知りえました。
でも10年の時は二人にとってお互いの存在は全く違ったものになっていました。

この仮説は間違っているかもしれません。
三国連太郎は、海峡を抜ける時も、左幸子と別れる時も、過去の自分を捨てることを科した人物でした。
でもそれが全てとは言い切れません。彼は贖罪をすることで、生きる許しを得ていたからです。

でも左幸子とはすれ違った。そこが悲劇です。
女は男にとっては聖女です。でも男にはその想いは届きませんでした。
男は女の登場が全くの想定外で、パンドラの箱を開ける存在だったからです。
でも箱から最後に出てくる希望を得るまで男は自分を抑えることができませんでした。

二人は一晩未満の出会いから別れて、
二人とも同じ道を歩みました。
それは生きていけることを感謝し、生きることです。

人生は皮肉です。
それが崩れるのです。女の一途な気持ちで。
男への感謝の念を生きがいとしていた純粋な女の行為で。


罪を犯したら、必ず償うことを義務付けられているのでしょうか?
その償いとは、自己を満たすことでは満たされないのでしょうか。
男が犯した罪の重さは最後までわからないままです。
事実は男にしかわかりません。
そして男の最後の行動はそれに見合った行動なのでしょうか。

男が罪を作ることになったきっかけに同情はしませんし、できません。
そして、彼は重大な罪を重ねました。
けれど誰もが男と同じ境遇なら同じような行動になることに同意します。

罪という概念は、神の意志であるとともに、
人がつくりだしてきたのでしょう。
でもそれをルール化することが人の知恵であるのだと、
そんなことを考えてしまう二度目の鑑賞でした。


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