2013年07月11日

有機圃場で種を取りたいです

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有機農業の根本の考え方のひとつが、循環農業です。
畑(田んぼ)内で全てを完結させるのが理想です。
全てというのは、種であっても苗であっても肥料であっても
外部から入れない、畑で収穫したもので完結させることです。

幸い、サツマイモは自家採取した種芋でやれるので、
種(苗)に関しては自家調達ですが、
地力を上げるために定期的に休耕した畑に輪作で蒔く緑肥作物の種は、
外部のものでした。
今回、種取りを目的に、自社の有機畑でライ麦を育てました。
上手く種が取れれば、自家採取で輪作作物が栽培できます。
  


Posted by いもたつ at 13:11Comments(0)芋日記

2013年07月10日

足跡を使って

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10日程前に、畝(うね)間を除草した時に残した足跡を、
上手く利用してヒバリが巣を作ってありました。
卵は3個です。
カラスには見つからなければ良いですが。
  


Posted by いもたつ at 09:20Comments(0)芋日記

2013年07月09日

ほめられました

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隣の畑で昨秋から麦を育てて、
畝(うね)を立ててすぐに麦ここにも麦を蒔き、
同時に隣の畑の麦藁を敷き詰めていた畑です。

隣の麦藁で苗を植える前後で抑草して、
ここに蒔いた麦が伸びたので、倒して麦藁にして抑草しています。

最初の麦藁は、土に返りはじめていて、
新たな麦藁で抑草という良い循環です。

親しい農家の昭さんに「これは良いサツマができそうだ」
と誉められました。
  


Posted by いもたつ at 13:23Comments(0)芋日記

2013年07月08日

中耕

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サツマイモの苗を植えて、つる、葉が伸びるまでの間に、
『中耕』という農作業をします。
畝(うね)間を耕すのですが、目的は、
除草と、土がやわらかくなるので通気性、透水性(排水性)が高まります。

最近は干し芋産地でもスコールのような局地的な極端に強い雨がある時があり、
透水、排水性はより重要になっています。
  


Posted by いもたつ at 16:34Comments(0)芋日記

2013年07月07日

決闘般若坂 1943日 伊藤大輔

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伊藤大輔監督、
片岡千恵蔵の武蔵(たけぞう)と月型龍之介の宍戸梅軒という、
往年の名時代劇です。
劇場で鑑賞できたことを素直に喜びます。

75分なので現代映画からすれば短い部類です。
テンポ良く話も絞っているので、尺は過不足なくです。

冒頭の敵討ちと、ラストの梅軒と梅軒の妻との殺陣のシーンも迫力ありました。
切っても地が噴出したり、効果音を効かせていないところは、
かえって健全な時代劇という印象です。

女性二人が武蔵にかかわりますが、
日本女性という感じです。
二人とも(プラス弟子の子供)武蔵を信頼しています。
何年ぶりかrの再会でも、武蔵からのねぎらいもなく、
ほとんど会話もないけれど、またこれで何年も信じて待つことができる。
そんな男と女(同姓同士でも)の信頼関係は、
今は希薄だなと思ってしまいます。
江戸初期の時代というよりも、
この映画が製作された頃はこういう雰囲気だったのでしょう。
今は携帯電話とネットという社会なので、
こういう信頼関係はできないのでしょう。

そして、ラスト武蔵は敵の子供を救い、やっつけた敵を弔います。
この精神も見習いたいものです。

話は前後しますが、ラスト直前に、
強くなっても、沢庵和尚には叱られます。
強くなったら、それ相応の責任を身に纏うということです。
これも耳が痛いエピソードです。
  


Posted by いもたつ at 10:58Comments(0)銀幕倶楽部の落ちこぼれ

2013年07月07日

別離 201イラン アスガー・ファルハディ

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一組の夫婦が離婚調停している場面からこの映画は始まります。
イラン国外への移住を希望する妻、
11歳になる娘の将来を危惧しての決断です。
当初は夫も賛同していましたが、父がアルツハイマーになり、
介護が必然の状況になることで、妻に対してその約束を反故にするところから
持ち上がった離婚騒動です。

妻は実家へ、介護は夫と娘と、ヘルパーとなります。
ここから夫婦も含めた泥試合が始まります。

イラン社会の現状を上手に現しながら、
緻密な脚本は観客を惹き込みます。
展開上不可欠の二つの嘘の設定も見事なら、
一人ひとりの自己を守る台詞も絶妙です。
日常の延長で起こった出来事が、
悪い方向へ転がり、サスペンスも絡んだ極上の人間劇です。

夫婦は中流家庭です。
介護に雇われたヘルパーは貧困家庭です。
バスを乗り継ぎ幼い娘を連れて、身重の体で働きます。
彼女の夫は短気でヤクザまがい、挙句の果てに失業中です。

日銭が必要な貧困、妊婦とヤクザまがいという背後設定を踏まえた上で、
事件が起こります。
彼女が無断で介護を抜け出し、その隙に父は危うい身になります。
それが夫と娘に発覚、彼女は解雇、それだけにとどまらす、
夫と女がいざこざになり、夫が女を突き飛ばし流産という事件に発展します。

イランでは数ヶ月の胎児が流れると殺人罪になるために、
裁判になります。
争点は、夫が女の妊娠を知っていたか。
ここからサスペンスの色合いが濃くなります。
夫は本当に妊婦であるという認識がなかったのか?
逆に女の流産は、夫の過失が原因なのか、どうもそれ自体も怪しくなります。

この映画の秀逸さは、その表面的な裁判の争いの奥にある、
当事者二人に纏わる人間関係の今までの積み重ねを、
裁判の進行に重ねている所と、
夫が主張する安易に罪を認める行為の生きる尊厳の放棄への警鐘です。
金で解決をしようとする妻と、どこまでも折り合いません。
妻の行為は不安を払拭することだけに囚われています。
けれど、安心とそれを速やかに手に入れられる時間を買う行為を、
否定できません。
ただ、夫は尊厳を捨てられないのです。頑なに。
そこまで頑なになるのは、娘に折れる父親像を示すことが
二人のこれからの一生に埋められない溝を残すことになるからです。
そうなってしまうのは、
既に夫妻が別れの真っ只中にいる、これまでの関係からです。
娘はもうさんざん夫(妻も)が不審なのです。

ふたつの嘘にひとつは、夫です。
妊娠を知っていた事実です。
尊厳を守りたい夫の態度はこの嘘がある限り、娘は不審をぬぐえません。
けれど、裁判の進行を考えると、これの露呈は決定的な不利になります。
それを設けているこの台本はとても残酷です。

もうひとつの嘘は女です。
夫のいざこざの前に既に流産は決定的だったことです。
この嘘ももちろん裁判で決定的に不利です。
この背景にはヤクザな夫が絡んでいます。
イランの格差と社会状況を見ます。

話はそれますが、
女が介護の父を触ることを躊躇するシーンがあります。
それらを含めて、イスラム教を体感させるシーンが多く出てきます。
結局女は、夫の過失をコーランに誓う条件で、金を受け取ることができませんでした。
これらもこの映画の特色です。
イランのありのままを見るようなのです。


この映画では誰も勝ちになりませんでした。
夫婦は、別れを強化しただけです。
娘はラスト、離婚が決まった両親のどちらの元につくかの選択を求められます。
それ自体もだれも勝たない証ですが、
娘は全神経を傾けた日々で、その結果がこころの傷と両親の離婚です。
(私は、娘と両親との別れがこの題名にかかっていると推測しました)

そしてヘルパーの夫婦も勝つことなく終わります。
この夫婦の娘も主人公夫婦の娘同様の傷を負いました。

日常の延長であることがこのシナリオの怖さです。
老人問題、経済格差、宗教を盾にしたエゴの放出、
不安な社会から逃走したいという動機からの妻の行動、
豊かになるごとに大きくなる普遍の問題を語る作品です。

それがたまたまイランであっただけです。

罵り合う印象が強いのですが、
家族が家族でいることを渇望している裏返しのようにも思えました。
  


Posted by いもたつ at 10:53Comments(0)銀幕倶楽部の落ちこぼれ

2013年07月07日

土を覆う

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天然であれ、そうでないものであれ、
土の表面を覆うことを『マルチ』といいます。
土を覆う目的は様々で、
土が乾かない、他の土が入らない、土の成分を逃がさない、抑草等です。

この畑では、
サツマイモの畝(うね)は黒いビニールでマルチ、
畝の間には稲藁と麦藁を敷いてマルチでなおかつ、
えん麦を植えておいて育った時点で倒してマルチにします。

稲藁や麦藁は天然資材、
黒マルチは合成資材、
えん麦は栽培した植物です。

栽培品目、畑の環境、栽培方法でマルチが必要かを考えて、
作物がより良い状態になるように資材は使い分けます。





追伸
7/5に、7月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。今月のお宝ほしいもは、“有機EM農法玉乙女平ほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
http://www.tatuma.co.jp/teiki-month/1307.html ">今月のお宝ほしいも

  


Posted by いもたつ at 07:02Comments(0)芋日記

2013年07月06日

「ゆっくり動く」と人生が変わる 小林弘幸 著

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現代人の誰もが少なからず、“急げ”が身についていますが、
私はそれが極端です。
数年前からいくらか気にかけていたことですが、
この本を読んで、“急げはろくな事がない”のが間違いないことを確認です。

『やっぱり』を感じるのと同時に、
『わかっているけどやめられない』を痛感です。

“急げ”は生きる上、特に仕事を進めるにおいての力ですから、
真っ向から否定するわけではありませんが、
自分で“急げ”をコントロールできないのが問題です。
『いつも急げ』になり勝ちです。

この本を読んでいる時こそ、
落ち着いた呼吸をしますが、その時に、
いかに浅い呼吸で過ごしているかに愕然と気づきます。
どうすれば良いものやら。

この本を目に見えるところに置くことからはじめましょうか。






追伸
7/5は「小暑」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「小暑」の直接ページはこちら
小暑

  


Posted by いもたつ at 08:43Comments(0)いもたつLife

2013年07月05日

【SPAC演劇 「母よ、父なる国に生きる母よ」 ヤン・クラタ 演出】

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世界一強固な絆で結ばれている、愛し愛されているとされる母娘関係に疑惑を入れて、逆転となる憎悪と支配の関係を成立させて、人の世界の始まりから現在に至るまで続いてきた争いの源を覗く。それが私にとっての「母よ、父なる国に生きる母よ」での体験でした。

太古の昔からという日本語訳と太鼓とアカペラで始まるこの演劇冒頭で私は、映画「2001年宇宙の旅」で類人猿とモノリスが遭遇したシーンを思い起こしました。
時空を超えたシーンで、母娘を引き合いに出して繰り返し同じテーマを語っていることからも哲学的な「2001年宇宙の旅」が重なります。

元々、母が子を宿り産み落とすのは神聖なことです。そしてその絆はけっして切れるものではないし、母が娘を思わない時は片時もありません。
けれどそこに何の疑いもしないで道徳論だけで「そんなのは当たり前」としないのが、「母よ、父なる国に生きる母よ」です。

強固な愛の反作用があるのではないか?
母も所詮娘を支配しているのではないか?
そんな疑問を感じる演出です。そして、愛していることと憎悪の表裏が母娘の間に互いに存在することを確認します。それは、母と息子ではそこまで強くはならない憎悪のような気がします。もちろん、父と娘、父と息子でも同様です。母と娘だから、母にとって娘は自分より後にまた子を産む存在だからという、女同士の負けられない本能があるからのような気がします。
それはおいて置いて、演劇はこの絶対的に思える絆の母と娘さえも憎悪の関係になることを、人が刻んできた歴史の様々なシーンで再現、証明します。
ナチスドイツによるポーランド占領とユダヤ人の殲滅を表すシーンでは、その根本原因のヒトラーが、彼の幼少の頃の父、母との憎悪の反復でないかを示唆します。
現在はかなり解決に至っている黒人差別や先住民への迫害問題の場面でも、個々人による違いの大きさがありました。それも元になるのは、家庭での生育の影響が大きいはずです。
また、エイリアンの登場も子孫を残すことへの言及です。エイリアンと人は子孫を残すということで相容れることができないことから争いになりました。エイリアンは人が憎いから恨みがあるから人類を滅ぼそうとしたのではありません。子孫を残すことの過程で人類と争うことになりました。子孫を残すことができる女性としての定めには、母と娘は仲が良いという優等生な関係は、平時だけなんだということを見せ付けられます。
そして、家父長制度についても強く触れます。私はこれについては、男も女も上手くいっている時だけ機能するもので、本来どちらも(特に女性が)納得しているわけではないと考えています。お互いの都合が良いだけで、お互いの支配の按配でバランスをとっているだけです。

以上の4つのシーンの根底にはどれも、愛すべき母と娘の関係の裏返しの、母が娘を支配する構図、お互いが憎悪を持っているということがあるのではないでしょうか。
この事実を認識することはとても辛いことです。でも突き詰めると人の争いの解決に繋がることでもあるということに気がつきます。この演劇が言いたい最終地点はそこなのだと解釈しました。

太古の昔から始まったこの演劇は、強い歌声とリズム、衣装も無機質な色合いで、時折ユーモラスな演出をはさみますが、全体的には演者から主張を感じました。それが最後は華やかな衣装とハーモニーの歌です。そこには望みはかなうことが織り込まれています。

母と娘という神聖な関係の中に支配や憎悪があり、それが世界中の争いの源だとしたら、解決するのはたやすいはずです。母と娘が喧嘩するのは、ほんの些細なことからと相場は決まっています。そしていつの間にか仲直りします。

ただし厖大な時間の中で世界中のいたる所で何度も、いろいろな形で起きてきた争いがたやすくなくなることは、現実にはあり得ないことかもしれません。けれど、解決できる関係であることを信じるのはとても有益だと思うのです。

本来あらゆる人間関係の中で最も強く清いのが母娘関係なのだから。
  


Posted by いもたつ at 07:31Comments(0)いもたつLife

2013年07月04日

WHYから始めよ! サイモン・シネック著 栗木さつき訳

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企業に大切なのは『理念』であることは誰も知っていることですが、
著者は、“わかってないですよ”と諭します。

人には帰属したい願望があります。
お客さんも、従業員も。
また、日常で何のために生きているかの理由を、
“感じていたい”のだから、それに即した経営は必須です。

企業行動は、
『why』『how』『what』で語られるのが本来なのに、
逆になっていて、それが企業価値(利益)を損ねていることを訴えます。

わかっているけどできてない。ことを訥々と繰り返し語ってくれます。
それはその大事さを軽んじているから、
違うことでの解決を経営者が図ろうとするから、
平易な言葉と、多くの事例で読者の体にしみ込ませるのがこの本です。
  


Posted by いもたつ at 06:44Comments(0)いもたつLife